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追想・独逸軍将校「ブリンクマン少佐」

 もうしばらく、せめて後一週間か、半月……。部隊編成を理由に戦線後方に配属された彼にも、残念ながら戦場に戻る時間が近づきつつあった。

 1944年9月17日早朝、 西の空遠くから響く轟音と共に無数の連合軍の輸送機が確認された、との第一報が第10SS装甲師団捜索中隊の仮駐屯地に入る。

 数多の輸送機から、これもまた数多のパラシュートが花開き連合軍空挺部隊の降下が確認された、との第二報を聞きブリンクマン少佐は、編成を理由にした私の”休暇”は終わったのだな”と認めざるを得なかった。

 連合軍の狙いは何か? 西部戦線で想定されている主戦地域からここは遥かに離れている。「主戦場で本格的な攻勢がある為の陽動作戦ではないか?」「すでに連合軍は目と鼻の先まで来ているのはないか?」悲喜こもごも錯綜する情報の中でブリンクマン少佐もまた連合軍の狙いは何か考えあぐねていた。

 ここはネーデルライン川北岸地域であり最前線から100キロ近くも離れている、なのに何故この辺鄙な地にパラシュート部隊が降下する?だが、考えても無駄であることも解っていた。何しろ情報が少な過ぎる。確定した情報が集まらない事には話にもならない。兵達は解けない待機命令に時間を持て余し根拠の無い噂話に花を咲かせ始めた。話に飽いたブリンクマンは昼寝を決め込むつもりで執務室に戻ることにした。

 誰にも話したことは無いし、誰にも話せないが、誰もが心の底で思っていることがある。

 もうこの戦争は負ける……ドイツ軍の中枢も馬鹿ではあるまい、どこかで見切りをつけて和平交渉が始まるはずだ。東部戦線は戦力があるうちに国境まで引いて守ればいい。それに西部戦線で冬に反攻作戦が展開されるとの噂も将校の間で流れている。連合軍に一当てしてファイティングポーズを見せ、そのまま和平交渉開始と言う訳だ。

 東西どちらの戦域でも既に趨勢は決している。あとは死なない程度に適当に戦うだけだ。

「どちらにせよ、東部戦線程の地獄ではあるまい」

 軽く口を吐いた言葉ではあったが、一気にあの頃の情景が浮かび上がって来てしまった。ブリングマンは嫌がるように首を振った。ああ、また思い出してしまう……手の皮が剥がれる程に鉄冷えする機銃の冷たさを。極寒の冷気に晒された頬を凍らせながら、かつて人の住む建物だった瓦礫を乗り越え、更に奥にある建物を瓦礫に変える。敵兵士を……その街に住む住人でさえ「死体」と呼ばれる人非ざるものに変えて行く極寒の地。あのスターリングラードの「市街戦」ほどの狂気の戦場は流石にもう二度と経験することはないだろう、とソファに横になる。

 夕刻までに集まった情報は確度の低い物ばかり。周辺数十キロに及ぶ範囲の至る所に連合軍空挺部隊が降下したとの情報が山の様に押し寄せてくる。そして前線後方のこれまた至る所で空挺部隊と交戦中との情報も……。有り得ない。ブリンクマンは苦笑を禁じえなかった。連合軍の新手の情報攪乱か? この情報が事実なら数万人以上の降下兵が一気にアルンヘム以南の広汎な地域に降り立ったことになるではないか。連合軍降下兵の情報の出所が広域過ぎて全てが信じ難い。しかしアルンヘム西部で降下兵が活動していることはブリングマンも認めざるを得ない事実であった。そして最前線であるベルギー国境のロメルにて連合軍戦車部隊が戦線を突破したとの報が届く。それは錯綜した情報の中でキラリと輝きを放ち、ブリンクマンの目に留まる。

 ロメルを基点にしてジャンクと見られていた情報を統合して行く。至る所から現れる降下兵の情報。アイントフォーヘンが奪取されたという未確定情報。ベゲール。グレーブ。ナイメーヘン。そして……。

……これは、これは事実なのか?連合軍のノルマンディー上陸以降、彼らの兵站能力がドイツ軍を陵駕しているのは解っていたが……これだけの空挺部隊を真実動員したと? 輸送機と降下兵だけでも膨大な数だ。どの位の規模で、幾つの部隊が降下した?そして降下兵を助ける様々な物資……実際にやってのけたというのか。

 ブリンクマンは己の想像に汗が滲むのを感じた。

 想定された主戦場の裏をかき、予想外の地点を突破。同時に戦線後方の主要な橋梁を空挺部隊で占拠。ドイツ軍の抵抗が組織立たない間に各地点の橋梁を渡る。そしてゴールはネーデルライン河を越える橋を持つこの街。ネーデルライン河を渡られてしまえば、もうドイツ軍にベルリンを守り切る術は無い、そうなれば戦争終結の為の講和など期待できない……国が滅ぶ。

 地図を睨むブリンクマンに部下が近づく。

「少佐、連合軍空挺部隊に攻撃を受け、守備隊が撤退との報せが入りました」

「……何処の、守備隊だ?」

「アルンヘム市街 敵軍に占拠されました。併せて河川南岸との交通が途絶……」

 その報告を受けた刹那、”不快な痛快さ”、とも呼べる複雑な感情がブリンクマンを襲った。えも言えぬ感情が強い嘲笑と変わる。

 笑いを堪えることが出来ない彼を下士官が訝しむ。

 連合軍は本気でこのバカげた空挺作戦を実行に移したのだ。だがしかし、ひとたび成功すればこの上ない戦果を齎す作戦を……。

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