オランダに流れるネーデルライン川北岸に小都市アルンヘムはあります。ヘルダーランド州の州都として現在も美しい景観を誇る小都市はどのようにして発展していったのでしょうか。その小さい街の形成に端を発したのは恐らく大河橋がかけられたからかもしれません。橋が作られ、南岸と北岸の小さい交易から生活圏が形成されていった、そんなところではないでしょうか。
皮肉な運命ではありますが、橋とともに生まれたアルンヘム市街はその橋の為に戦争に巻き込まれることになります。連合軍とドイツ軍の両軍による大河橋争奪戦は激しく街を損壊させました。災禍はその地に住む人々に降りかかり、その営みを荒廃させてしまう…戦後、瓦礫と化した街の復興にどのくらいの期間を要したのでしょうか。恐らくこの土地に根付く人々の根気強い粘りが次第に街を復興へと導いたのでしょう。しかし街が瓦礫と化す為に要した時間はほんの一瞬ともいえるものでした。…街は大河橋だけを残し、たった三日で瓦礫と化しました。
時は1944年9月17日。後に史上最大の空挺作戦と謳われるオペレーション「マーケットガーデン」の幕が上がります。ドイツ軍の主要防衛ラインを迂回、裏ルートからドイツ国境に迫る、走破距離100キロにも及ぶ突破作戦です。
尚且つ想定進路に存在する5つの橋梁奪取のために英米の精鋭・米軍第82空挺師団、同じく第101空挺師団、そして英軍第一空挺師団が空から舞い降ります。作戦の最終地点と定められたアルンヘムの大河橋の奪取を任されたのが英軍第一空挺師団。地上軍の英国軍第30戦車軍団がアルンヘムに到着する予定は24時間後。それまでの間、大河橋をドイツ軍から死守するのです。
大胆な作戦です。それも過去に類を見ない。ドイツ軍の不意を突き、国境を超える…喉元に迫る作戦は成功すれば年内に戦争終結も起こり得る大成果となります。
とても甘い想定の下、連合軍は作戦を実行します。地上軍のアルンヘム到着は作戦開始から24時間後…敵陣深く入り込み100キロにも及ぶ縦断戦です、連合軍兵士たちはドイツ軍の想定反撃力が低く見積もられていたことを思い知ります。圧倒的な兵力差で前進はするものの作戦のタイムスケジュールは大幅に狂い始めてゆきます。地上軍のはるか先、橋を守る降下兵はどのような気持ちだったでしょうか。待てども現れるのはドイツ兵のみ、味方の兵はいつ現れるのか…一分が一時間に、一時間が数時間にも感じたのではないでしょうか。命のやり取りが行われる戦場でこれは拷問に近い…。
その甘い想定の根底には早く戦争を終わらせたい将兵の気持ちが強く反映され、情報を誤認したのかもしれません。ドイツ軍の敗走は続き、戦争の終結は誰も目にも明らかでした。問題は”いつ”終わるか。この状況で浮足立たない兵士はいないと思います。生きて戦場から帰る。クリスマスには家族と過ごしたい。判断を誤るには十分な下地が西部戦線には有ったのではないでしょうか。そして、その判断の甘さの犠牲になったのが、英国軍第一空挺師団でした。不運にも彼らの敵は西部戦線の敗残兵を寄せ集めたアルンヘム守備隊ではありません。編成途中ではありますが、重火器を要したドイツ軍第9SS装甲師団・第10SS装甲師団の一部でした。
想定外のトラブルは狙い済ましたかのようにの英第一空挺師団に頻発しました。ジープが使えない、無線が繋がらない。最終的に師団単位で奪取予定のアルンヘム運河橋はジョン・フロスト中佐率いる、第二落下傘大隊のみがアルンヘム市街に到着、同時に橋梁北端を占拠、ここでようやく橋頭保を築くことに成功するのです。
ですが事態の悪化はさらに深刻化の度合いを深めて行きます。フロスト中佐麾下の部隊は第一空挺師団主力との連絡線を断たれアルンヘム橋北岸で孤立。そして、ここからフロスト中佐たちの長い長い3日間が始まります。
ドイツ軍の猛攻に耐える降下兵達。大河橋の北岸のみとはいえ、命令書にある通り24時間の橋梁確保の命を達成したのですが、地上軍の姿は未だに現れません。必ず来ると信じた援軍を待ち望んだまま戦いは昼夜を問わず三日間に及びます。その激烈な市街戦がアルンヘムの街を瓦礫に変えました。たった三日で地上から街が一つ消えるのです。
慣れぬ市街戦を戦い抜いた残余の降下兵たちは四日目の朝、鳴り響く銃撃音によってドイツ軍の最後の掃討戦が開始した事を知らされます。降下兵からの反撃はありません。兵たちの銃にはもう弾丸は残されていませんでした。既に弾は尽き、聞こえる銃声はドイツ兵の銃身から轟くばかり、負傷していない英国軍兵士は皆無だったとか…このことからも激しい戦いだったことが伺えます。
当時から既に半世紀以上の時が流れていますが大河橋は健在です。英独による争奪戦が繰り広げられたアルンヘム大河橋は現在も生活の要衝として街に欠かせない存在です。
戦後に大河橋には名前が付けられました。
大河橋の名は「ジョン・フロスト ブリッジ(John Frostbrug)」https://oranda.jp/place/bridge/
単純にオランダをナチスドイツの手から解放した連合軍を称え、この地で勇敢に戦ったフロスト中佐の名前を大河橋に冠したに過ぎないのでしょうが私は皮肉な印象抱いてしまいました。
三日間ではありますが、地獄のような戦場と化した街。この地に根付く人々には連合軍であれナチスドイツであれ街を破壊しつくす鬼にしか見えなかったのではないでしょうか。街の、人々の生活などは顧みずにただただ軍事車両と軍人を渡す為にあの橋を奪い、奪い返した戦う為だけの鬼たちの名前をあの橋に刻んだのではないでしょうか。
この異常な災禍が再び街を襲わないことを祈り、街の暗黒史として。